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死と目覚めに至る思い~土居伸光さん対談&対話会ダイジェスト

死と目覚めに至る思い

作家の土居伸光さんの、奥様のがん体験、変化変容、学び、そしてそこからの目覚めに至る道のりをお話しいただきました。

土居伸光さん:作家。「スマイル~絶望を喜びに変えた女性の記録」「光」「望」(光文社)著者 (著書共著を合わせて9冊出されています)

【会社を辞めたとたんの末期がん宣告】

脱サラして会社を辞めたとたん、妻の末期がんが発覚しました。一年前から咳が出て、次第に痛みを伴うようになっていき、これから生活の保障がなくなるということを視野に入れ、念のため検査をしてもらった結果、余命6か月の診断。それは1990年7月のことでした。

医師から私ひとりで病院に来るようにとの連絡が入り、病院に出向いたところ、そう告げられたのです。当時の医療では入院しても治療の方法がない、と医師から告げられた時、今でもはっきりと覚えていますが、余りのショックで私の脚はがたがた震えだしました。震えは収まらず、2階の診療室を出て、1階のロビーへと繋がる階段を、手すりをもたないと降りられないほどでした。それだけではありません。気が動転いた私は、病院からどの道を通って帰ったかも定かではないのです。狼狽えた私は、このことを妻にどう話せばいいのか分からず、医者と示し合わせ、「入院できないのは、軽いがんだから」という嘘をつくことにしたのです。とても「お前の命はあと半年」とは言えませんでした。

でも、結局、彼女はそれから3年生きました。その過程で、彼女は変わっていきました。そして、そんな妻の様子を見ながら、自分でも知らないうちに私も変わっていったのです。

【病院の治療を止めるまで】

通院で抗がん剤を打つしか術はありませんでした。抗がん剤を打った日は、副作用がひどく、トイレにこもりきり。三度目の抗がん剤治療を受けたころから、髪がバサッと抜け始めたのです。彼女の眼は、「これで本当に軽いがんなの?」と私を責めているように感じました。彼女は、怖くてそのことを口に出せなかったんでしょう。私は私で、余計なことを言わないようにと気を遣い、その結果、段々夫婦間の会話もなくなっていきました。あの頃は、楽しい会話なんて全くできませんでした。抜け落ちる髪を見ながら、洗面所で茫然と佇む妻の姿は、私に嘘をついている罪悪感を植え付けました。そんな罪悪感に耐えきれず、私は自分から余命6か月だったということを妻に告白したのです。

でも、結局、彼女はそれから3年生きました。その過程で、彼女は変わっていきました。そして、そんな妻の様子を見ながら、自分でも知らないうちに私も変わっていったのです。

妻は、ショックでその後何日間も口もきくことはありませんでした。次に口を開いたとき、彼女は「もう、病院にいかない、(抗がん剤を打って)そんな苦しい思いをして死にたくない」と言いました。病院以外での治療を知らない僕は、彼女の言葉に狼狽えるばかりでした。それで私は担当医に会い、妻の気持ちを告げると、驚いたことに医者はその決断をあっさりと受け入れたのです。

【不治の病の人々との出会いから徐々に変化が生まれてきた】

治療を受けないと決めた後、私はどうしていいのか分からず、周りの人たちにも妻の状況を話すようになりました。そうしたら、いろんな人から情報が集まってきたんです。そこから、西洋医学ではないいろいろな研修会や勉強会に出かけて行くようになり、そこで私は、がんから生還した人たちに接触するなどして得た情報を、彼女に伝えました。

そんな情報の中に、穂高の養生園というものがありました。そこは治療してくれるわけでもなく、ただ規則正しい生活と、玄米採食などによって自己治癒力を高めることを目的とした施設です。そこには病院から見放された人たちが沢山滞在していて、彼女はそこが気に入り、長い時は一ヶ月近く、短くても一週間ぐらい断続的に何度も過ごすようになって行きました。そこで、不治の病を抱えた人たちとの出会いが彼女を変えていったのです。

そこに行くまでの妻は、「なんで自分が?」という被害者意識でいっぱいでした。私も、末期がんになるまで発見できなかった医者に怒りが湧いたものです。私も妻も、心はブレブレでした。だけど、養生園で彼女と同じような境遇の人たちとの出会いが、「苦しいのは自分だけじゃない」と彼女に生きる勇気と気づきを与えたのです。

それまでの彼女は、がんを敵視していました。しかし、ある日、「がんを作ったのは、自分自身。だからがんは敵ではない」ということを言いだしたのです。「自分の以前の食生活や、生き方が原因であって、がんになったことは偶然じゃない、必然なんだ。そこから自分は学ばなければならないのだ」と。私は、最初は「何を言ってるの?」と驚いたものです。そのころから彼女の意識の中に違う流れが生まれてきたのです。

【常識の枠を超えて】

それまで暗い顔をしていた彼女は、だんだん微笑みを取り戻していきました。養生園から帰ってくるたびに微笑みが増え、そして私を驚かすような意外な言葉を口にするようになっていったのです。「自分はがんの被害者ではなく、自分の体を傷つけた加害者だ」といった風に変わっていったんです。その変化は、私たちが正しいと考えてきた「常識」というものに対する変化をもたらしました。「常識」に囚われないで、自分で物事を判断し、これまで受け入れることのなかった考え方を受け入れるようになって行ったのです。そんな生き方は。彼女の身体にも変化が起こしました。玄米採食が影響したのだと思いますが、信じられないことに、がんでどす黒く変色した妻の右上半身の色が、徐々に元の肌色へと戻っていったのです。この変化は、彼女に生きる希望をもたらしました。

がんの痛みは酷いものです。病院に行かなくなってから数か月後のある夜、ひどい痛みが彼女を襲いました。最初の痛みがやってきたとき、私は「病院に行こうか?」しか言えませんでした。でも彼女は頑として行くことを拒否したんです。私にはなす術はなにもありません。苦しむ彼女を側で見守るしかないのです。彼女の痛みを少しでも和らげようと、私は彼女の手を握るしかありませんでした。

二度目の痛みがやって来たある夜のことです。彼女の手を握りながら痛みが去るのを私は必死に祈りました。すると、彼女が痛がっていたのと同じ場所が、自分の中で強烈に痛み出したのです。それは凄い痛みでした。無意識のうちに、私の手は彼女が痛がる場所へと向かい、そこに手を置いたのです。暫くすると、夜叉のような形相で苦しんでいた彼女が、何事もなかったように、すやすやと眠り始めたのです。この不思議な体験は、私を変える切っ掛けとなりました。

【見えざる力】

それ以来、自分の力ではない、見えざる力が働いているのを感じざるを得ない出来事が次々と起こり始めたのです。私の変化に歩調を合わせるように、彼女の変化も加速し、自分の不幸を嘆くこともなくなり、微笑みはより一層深くなっていったのです。微笑みは最期の瞬間まで失われることはありませんでした。日々、生かされていることに感謝するようになり、そのうち、自分ががんであるにも関わらず、養生園で出会った、苦しんでいる人を助けることまでし始めたほどでした。

普通だったら、死を自覚した病人と自宅で過ごす日々は辛いものだと思います。しかし、私の気持ちは不思議なほど楽でした。妻と歩んだ3年間、僕はまともに働くことはできませんでした。セミナーや養生園への出費で、何十万円と言うお金が毎月出ていくわけですが、信じられないことですが、全く生活の不安や未来の不安というものを感じることはありませんでした。彼女が亡くなった時、通帳の残高はゼロに近くなっていました。

【出棺の時の至福体験、そして人生の変容】

彼女が亡くなり、最後の別れのとき、私はものすごい至福意識に包まれました。最も悲しい瞬間なのに、私の中に悲しみは一片たりも存在しないのです。ちょっと気が狂ったかなと思ったほどでした。用意していた喪主としての挨拶の言葉は、一言も出てこず、「皆さん、喜んでやってください」と、自分でも驚く意外な言葉が、口をついて出てくるんです。自分とは違う存在が私の中にいるような感じでした。涙も出てこないし、胸の中に渦巻く至福感は、私の中で益々高まっていくのです。そんな私の振舞いを見た親戚から、後で「これで新しい奥さんをもらえるから喜んでそう言ったのか?」って言われたぐらい周りから見て変な振る舞いを僕はしていたのです。

妻の死後も、不思議なことが次々と起こりました。25年経った今でもそれは変わりません。私は作家になろうと思ったことがありません。しかし、偶然が重なりあい、何かに導かれるように、気がついたら本をだすようになっていたのです。不思議なくらい最低限必要なものは必要な時にやってくるようになったのです。お蔭で、生きる不安をそれほど抱くことはなくなりました。「自分が何とかしなければいけない」という気持ちはないので、今は生きるのがとても楽です。

振り返ると、会社を辞めた途端、妻が末期がんと診断され、これからどうやって生活していこうかという私の中で不安というより恐怖が渦巻きました。死の宣告を受けた妻の恐怖は私以上だったと思います。あの頃の私は、今の私とは全く反対で生きるのがとても苦しく感じたものです。

そんな苦しみから抜け出すことができたのは、次のような考えを私が受け入れるようになったからだと思うのです。それらは妻の生きざまを見て、私が学んだものです。それらは、

  • 偶然はない。物事は全て必然で起こる。
  • 被害者意識を持たない。
  • 未来の不安に生きず、今を生きる。
  • 常識といった固定観念に囚われない。

【人間の根底にあるのは喜び】

妻と私の変化は、果たして覚醒と呼ばれるものかどうかは分かりません。度重なる不思議な体験を通して私は「生きていること自体が喜びである」、という信念のようなものを持つようになりました。「生きていること自体が喜び」と思いを持つようになるに従い、「生きるのが楽」になっていきました。すると必要なものが、全て向こうからやって来るようになったのです。この体験が私を益々「生きるのが楽」にしてくれるのです。とても不思議です。

見えざる力があると、私は考えます。その見えざる力は、ご利益だけを与える存在じゃなく、苦しみも与える存在です。与えられた苦しみをどう乗り越えていくのか。私はそこが覚醒に至る鍵なのだと思うのです。もし彼女ががんになった時、被害者意識のままでいたとしたら、自らの不幸を恨んだままだったら、その後の人生も全く違っていたでしょう。多分、今の私も存在しなかったでしょう。苦しみ乗り越えたその先に、私たちが求める光があったわけです。苦しみや不安は、逃げれば逃げるほど、何時までも私たちの後を追いかけてくる。そんなものから自由になるのは、きっちりとそれらと向き合うことだと思います。

人間の根底にあるのは、喜びなのだと思います。その喜びは、苦しみを乗り換えることで得られるものだと思うのです。しかし、私たち夫婦と同じように死という過酷な現実に向き合わなくては、喜びは手に入らないものだとは思いません。日々の生活で「他者の喜びを自らの喜び」とするそんな生き方を積み重ねていくことで、覚醒は自然と起こってくる。そう私は信じています。

 

貴重なお話を聴かせて下さった土居さん、そして対話会に参加くださったお一人お一人に心から深く感謝いたします。