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目醒めからGhostlyへ~甲田烈さん対談&対話会ダイジェスト

甲田烈さん対談&対話会ダイジェスト

【仏教学から、妖怪学への道のり】

もともと大学院では仏教学を学んでいました。近代の植民地化されていた時代のインドの考え方と、近代の日本の考え方の比較をやっていました。

それがどういう意図かと言うと、異文化体験、というのを受けたときに、自分たちがもともと持っている、土着というかベースにある考え方と、新しくやってきた考え方っていうのがある。そこでいろいろ葛藤が起こったけれども、どこを受け入れてどこを批判的に見ていくかとか、そういうことで格闘していた歴史があるわけですよ。

その辺のことに興味を持って学んできて、そこから関心が広がり、トランスパーソナル心理学というのは東洋と西洋を兼ねる、というようなことですが、そのあたりに興味を持っています。

もともと妖怪には関心が深かったので、妖怪と仏教学というか哲学の接点を探していたときに、たまたま東洋大学というものを創った哲学者の井上円了(1858-1919)っていう方、つまり近代を生きた方で、仏教徒なのですが、彼はヨーロッパの哲学を沢山勉強するのですね。

その中でどういう風にこの二つを(仏教と哲学)活かしていったらいいか、と考えていた。その方が妖怪学というのを立ち上げられていて、これが「ばっちりじゃん」みたいなところで、関心を広げていきました。

今は、その井上円了の考えた妖怪学というのを、基礎的な勉強をしているのはそこなのだけれども、そこをもうちょっと可能性を活かして発展させていくとか、その方向性を探っている、ということをやっています。型通りの自己紹介はこんな感じです。

本としては『水木しげると妖怪の哲学』(イーストプレス刊)を2016年の12月に出しています。新書です。読みやすいので興味があったら読んでみてください。水木しげるさんは妖怪とか精霊とか一生かけて表現していった人なので、そこと哲学がどういう風に絡むのかとか、それから水木さんは幸福論というのを強調されているので、それと妖怪とか精霊とどういう風に関わるのだろう、ということを扱っています。

【「目醒め」をどう捉えるか?】

仏教学等をやってきているので、「当たり前じゃん」という感じになってしまう。それは当たり前で、「その先」ということに今なってきていると思うのですよね。だから、目醒めとかいろんなことを言いだしている人たちがいて、情報発信がどんどんされて、僕も「妖怪ラヂオ」というのをやっていた時に、ノンデュアル ということを言う人たちにインタビューしたりしたのだけれど、「もう、そこから先に行っていいんじゃない?」という話になってきている。

そうなると、人の話を聞く、とかではなく、自分の生き方も含めて構築していくとか削り出していく、その段階なんじゃないかって感じるのですよ。

異文化の中で格闘するっていう流れがあったわけですが、そのなかで非常に大きな一つのポイントというのがあって、「人間は誰でも覚れます」という話なのです。

今なら、当たり前ですよ、っていう話になりますが、インドと言ったら(目醒めの話なので、ちょっと古典的なことをいれていきたいのだけれども)、いわゆるカーストってありますよね。そこにはバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラっていう階級があります。

お祭りをやっている階級が一番社会的な順位で、次に武装集団の階層がいて、次に商人がいて、それで一番下の階層にいるような人たち、というのは、解脱はできない、っていう風に言われていた歴史があります。そこを打ち破ったのが、有名どころでいったら仏陀ですよね。

近代に入り、「それって違うのでは?」っていう人たちが現れてきます。その流れの事を、僕は大学院時代に勉強していたので、それを、「どうしてか?」って、異文化的なものに接していった中で、自分たちがもともと持っていた常識みたいなものを疑い出すのですよ。「これってマジか?」っていう風に。

それを疑ったところで、こういう階級で別れていて、どうしても救われないような人間がいるのではなくて、たまたま世の中的にそうなっていて決まり事があるっていうだけだ、ということを言いだす人たちが現れるわけです。

日本でそれをやってきた、っていう流れは、実は早いのです。鈴木大拙が『日本的霊性』という本の中で取り上げていた親鸞(1173-1263)など、早いわけです。他力の思想という形で出している。

つまり、早くから、誰でも救われるとか誰でも覚れる、ということを言っていたような流れがあって。じゃぁ、それ以前の仏教だとか創唱宗教などそれ以前までさかのぼっていくとどうなってくるかっていうと、もちろんシャーマンがいるとか言ったような社会というのがあるわけなのだけれども、そこは基本的に分け隔てがないのです。樹にも草にも人間にも神がいる。だから、「当たり前じゃん」、っていう世界だったわけです。

でも当たり前ではあるけれども、やはり生きていく上で生存環境が過酷だったりするから、その中で地域や国によっていろんな形態をとる中で、歴史的に知られている宗教というものが現れてくる。そして宗教がやがて制度化し、制度化しすぎて差別とかが始まるから、反対運動とかいうものが起こってきて、そのリズムの繰り返し、みたいなことを我々の歴史はおそらくやってきている。

でもベースにあるのは、もともとそんなことを「覚り」とか、みなまで言わなくたって、「当たり前じゃん」、っていうところです。

それを、どういう風に取り返していくか、思い出していくか、というところで、いろいろなパターンが人それぞれ文化によって歴史的な状況によってあるだけの話です。

なので、「もうその先の話に行っていいんじゃないか」、って言ったのはそういうことにあります。

【スピリチュアリティと、Ghostly】

言葉のレベルでスピリチュアリティというものとGhostlyを整理してみたいんです。

昭和19(1944)年に鈴木大拙の『日本的霊性』というのが書かれて、そこで「霊性」という言葉が使われている訳ですよ。当時はまだ日本は戦争をやっていますから、大和魂とか日本精神とかそういうことが言われる時代の中で、大拙はそれと一緒に「霊性」という言葉をわざわざ戦略的に使うんですね。

彼は単的に、それをどういう風に定義したか。いろいろな角度はあるのだけれども、精神と物質だとか、対立しているものの奥に、今一つの世界が開けること、という風に定義しています。

そのうえで大地性だとかいろいろな定義があるのだけれども、そこで中心にとりあげたのが、彼自身は鎌倉で修行していますので、禅と浄土教。先ほど親鸞の名前を挙げましたけれども、他力の教え、です。

当時は戦前の背景もあるので、割と鎌倉時代以前の、例えば万葉集に書かれているような考え方とかはまだ感覚的な段階であって、霊性が目覚めていない、みたいな整理をしています。当然、他の宗派、日蓮宗であったり修験道であったりいろいろあるのを取り上げていない、というのがあり、戦後になって、例えば神道学者の鎌田東二さんなどは「神道にも霊性はある」っていうような言い方をしていて、それで付け加えたりだとか、そういう背景があります。

霊性は、もともと1990年代の末に世界保健機構(WHO)で健康の定義を新しく作りましょう、って言った時に、スピリチュアル、という言葉が入っていて、日本の中でそれを受けて大議論が巻き起こるわけです。

医療系の人たちは、その時に、霊性っていう言葉はあるけれども、霊なんて言う言葉を使ったら、お化けとか幽霊を意識しちゃうから駄目だとか、ではスピリチュアリティっていうカタカナで使おうとか、ひらがなで「いのち」って言葉があるよね、とかいろんな議論がされていきました。

そのなかで、やがてなんとなく日本の中でも、国際的にも言われてきたのが、どうも人生の究極の意味や価値を表すのはスピリチュアリティ、というのと、もう一つは、超越的なもの、先ほど「魂」という言葉が出てきましたが、そういったものへの自覚、気づき、目覚め、っていう軸があるのです。

なおかつ日本でちょっとややこしくなったなと思っているのが、2005〜6年に、江原(啓之)さんの「オーラの泉」が流行りますが、あのときに「スピリチュアル」って言われていたのは先祖の霊や守護霊、指導霊が見守っているから感謝しましょうとか、パワースポットに行って力もらって元気になりましょうとか、そういうこともスピリチュアルっていわれていった中で、医療や学問の世界で言われる「スピリチュアリティ」という言葉と、通俗的に「アネモネ」とかああいった雑誌に取り上げられる「スピリチュアル」、というのが分離していて、橋が架かっていないわけです。

僕は、日本トランスパーソナル学会で長く勉強していた時期に、そういうようなことを痛感することがいくつもありました。これを何か別の言葉で再定義しなおせないかな?って思った時に、はっと気づいたのが、先ほどの鈴木大拙が一つのヒントになったのです。

彼は禅と浄土教を取り上げましたけれども、それ以前の民俗宗教のレベルであるとか、もっと我々の身近にあるもの、例えば先ほど、観葉植物に名前を付けるとかそういう言い方をしましたが、身近に現れている生活環境のなかに落とし込まれている、目に見えない、自分を超えたものとの関わり、というのをボコって落としてしまっているのです。

それは、時代背景もあるから触れなかった、ということもあるのですよ。その辺のことをやっているのは、日本で言ったら民俗宗教の研究や民俗学、博物学だったり、そういう流れがあるわけです。

そういった中で、私はもともと妖怪とかに関心があったので、ここで結びつくなと。ではそれをどういうような言葉で言い表すといいか、って言った時に、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲(1850-1904)が、東京帝大で英文学の先生をやっていた時、学生たちに講義をするときに、こういうことを”Ghostly”という言い方をするのです。

これは、ラテン語やギリシャ語の影響を受けた”Spiritus”(スピリタス)からきた「スピリチュアル」とは違って、アングロサクソン系の言葉で、聖なるものの世界から、いわゆる精霊だとかお化けだとか、そういう世界までを、一つにくくって語れる、っていうことを言っているのです。

僕は、「これはいい」と、ピンときたわけです。なおかつ、彼は作品の中で”Ghostly”という言葉をどういう感じで使っているか、というと、薄暮的感覚だとか、ある種の幽玄さだとか、例えば日が暮れた寂しげな光景の中で、踊っている踊り子の足が、すっすっって上がっていった時に、白い足袋がちらっちらって見えると。そういうことを”Ghostly”という表現をしたり、かそけきもの、っていう意味合いで使っているのです。

その感覚を幽霊だとか精霊だとか彼の妖怪談とかで語っていく中で、感覚として入れ込んでいくのですよ。なおかつ、それだけにとどまらず、彼は当時の、それこそ仏教の知識であるとか、当時はやっていたハーバート・スペンサー(1820-1903)っていう思想家の説に影響を受けていたので、それを取り入れた形で「私たち自身が幽霊である」っていう言い方をする。

まったく同じことを宮沢賢治(1896-1933)が言っていますよね。「透明な幽霊の複合体」って、『春と修羅』の序文に出てくると思うのですが、私、というのは一人で人格が一つ、魂が一つだと思っているけれど、それは割とヨーロッパ的なものの感じ方、考え方であって、そうではなく、私たち自身が複合体ではないか、生まれ変わり死に変わりとか、人類の進化の過程とかが例えば畳み込まれているっていう話もあるわけだし、あたりまえじゃないか、と。

小泉八雲も宮沢賢治もそういう感覚でものを言っているわけです。その辺のところはやはり、アメリカとかヨーロッパ由来のスピリチュアルだとちょっと掬えない部分。そこも掬い取って、なおかつスピリチュアリティで言われているようなところも、十全に言い当てられる言葉が”Ghostly”かな、というのが、私の考え方感じ方なのですよね。

【目醒めと自己・他者問題】

 

前回の二子渉さんの対談(「パートナーシップと目醒め」)については、もう一つの側面としては、自己と他者の視点の反転があります。

自分と他人というものが同じ空間に生きているように見えるのだけれども、実は非対称的な在り方をしていて、そこに空間的に気づきを深めていく、という方向性も僕はあると思っていて、例えばこの辺のことは一つ、最近でいえばヌーソロジーだとか、もののケのしおりさんだとかが言われているようなことがピンときます。

日本人というか列島民といったほうがよいのかな?空間認知としてものをとらえていく、という伝統があったと思うのです。

例えば「ものがなしい」といったときに、私が悲しいのでも、景色が悲しいのでもなくて、景色と私との周りで「ものがなしさ」っていうのを我々は覚える。そうすると、景色と私のつながりは「もの」なんですよ。「もののけ」、とか、「ものすごい」、とか、この「もの」のことですよね。

その「もの」の観点を浮上させるのは自己他者の差異、違いで、なおかつスピリチュアルのところで、いま当たり前だよね、といいつつも次のところへステップアップっていうのがあると思うのは、「自己・他者」のところで引っかかる人がものすごく多いなと僕は実は思っています。

宗教的な体験とかで、カルトの問題でもあるのだけれど、自分で、自分の世界で一人で覚っちゃった、とかいうようなことはある。「自分はすべてと繋がっている」とか。そうすると他人が無くなってしまいます。

でも、他人っていますよね。反転したところ、自分の背中側に。つまり、自分では見られないけれども、他者側からは見えているわけだから、そこも含めて気づいていくっていうことをしたときに、自己・他者問題、というところまで行けるのだけれども、大体の場合が、自分一人の宇宙、というところで止まってしまうのですよ。

もともと一つだったところへ戻るというよりは、違いを認めつつ戻る、と言ったほうがいいのかなと思います。つまり、違いを前提に立てるわけです。それが先ほどの、自己と他者の問題になってくるわけですよ。

そこを押さえたうえで、全てが一緒だよね、というような結論ありきで始めるのではなく、違いが、どう違うのかっていうところから一でも二でもない、という意味での不二一元というところへいくのなら僕はいいと思います。しかし「みんな一緒だよね」っていうのが最初に立ってしまっているので、僕ははっきり言って危ないなっていう感触をもちます。極端な話、全体主義にいってしまいそうな感じがします。

【覚りの内実は一種の天才芸】

自分自身にとって、目覚めや覚りの感覚は?という質問に対して~

ものごとや見ているものに「愛しさ」を感じることはあります。僕が妖怪の話をするときに「他人とは思えない」という話をよくするじゃないですか。そういう時に感じているものってそうですよ。

ただ、僕は宗教家でも何でもないので、その辺のことについてはほぼノーコメントに近いことにしたいです。なぜかというと、体験は、人によってものすごく様々なのですよ。だから僕が例えば何かを話したとしても、その通りが正解にならない。絶対にならない。これだけは言えて、なぜかというとそこで人は個別性を持っているからです。

例えば、誰も人の代わりに死んであげることはできないでしょう?人の代わりに排泄もできない。そこに立ち現れている個別性の契機っていうのは非常に大事だと思っているのです。

だから、昔の人でも、言葉や象徴とか絵とかで指し示すことはできますよ、と言っていた。でもそれは、今のあなた方一人一人ですよ、という言い方をさんざんするわけですよね。

例えば、妖怪ラヂオでインタビューさせていただいた、「らくちんこ道」を提唱されていたじゅんころさん(今は別のフェーズで活動やっています)が、「パソコンの前で座っていた時に、『ある時、私はいない、ということに気付いた』」と言った。それを聞いた勘違いした人たちが、「よし、自分たちもパソコンの前に座っていれば覚れるんだ!」って思った。

それは、無理ですよね。そういうこと、つまり、形式を真似る、ということがこの世界はおこりがちなのです。こういう風にやればいいって、形式だけを真似る。それが問題です。

例えば長嶋(茂雄)さんが長嶋語で「シュっと投げてバッと打つ」と言う。その「シュッと、バッと、」を勝手解釈で真似てやることに近い。つまり僕に言わせると、覚りっていうものの内実は一種の天才芸ですね。天才芸だから、長嶋の解説を聞いて出来るようになるのと同じくらいの・・

だからと言って不可能なわけではないわけです。実存をかけた天才芸だから、本人はボロボロの状態になっているかも分かりません。何か、あるのでしょう。でも、それを聞いたからと言って、じゃぁ肉薄できるか、というと、それは天才芸だから、その体験を聞いたところで、「あなた方自身がご自分でおやりになるしかありませんよね」って思うのです。

その、個別や、実存や、尊厳ですよね。

【「違い」を感じさせているものが生命】

一時的な覚りの体験については、僕自身がこの世界にいるとはとても思えない感覚です。つまり、自分の視界が世界の限界っていう言い方をウィトゲンシュタイン(1889-1951)なんかがしていますが、自分の世界の際みたいなところに自分がいて、現象として肉体もあり、心もあり、こう動いたり考えたり、ってあるのだけれども、それが現れであって、現れていない、とか現れてないとしか言いようのないところに自分というものがあって、ここで現れている自分というものがあり、そこには「差異」がある。「違い」、です。

霊性の言葉、というのは、その本質は、僕は「差異」だと思うのですよ。違いを言っていく。だから、むしろ表現としては文学だとか、詩とか、そういうものと近くなっていく。つまり、何かを指し示すための言葉でしかありえなくなる。その違い、というのがあります。

(一時的な覚り体験について)そういう感じ、というのは子供のときとかにありました。今でも時々ふっと思ったりとか、そういうことはあります。それが覚りかどうかは全く別かもしれません。

だから、妖怪に共感できるわけですよ。この世基準で考えたら、あるか無いか分からないですよ、あんなものは。僕はそれを「命」って言えるのではないかと思っています。生命ですね。「違い」を感じさせているもの。だから、妖怪の趣味とかに突っ込んでいくと、生命論にいっちゃうのですよ、命って何?という話になるわけですね。

◆◆貴重なお話を聴かせて下さった甲田烈さん、そして対談&対話会にご参加くださった皆様に心から感謝いたします。◆◆

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