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ノウイング(古代の叡智)の学びと目覚め~Mioさんオンライン対談&対話会ダイジェスト

ノウイング(古代の叡智)の学びと目覚め~Mioさんオンライン対談&対話会ダイジェスト~ノウイングとは?今、目覚めるために手放すものとは?

ノウイングとノウイングスクールについて教えてください。

ノウイングでいうところの、「古代の叡智」についてですが、今から約5万2千年前から、「レムリア」と呼ばれる時代が始まりました。レムリアは、主に太平洋を中心に栄えた文明で、その次のアトランティスというのは、地中海辺りを中心に発達した文明です。(レムリアの最後とアトランティスの最初は、時期が少し重なっているようですが)レムリアからアトランティスへと伝わり、さらに現代まで連綿と受け継がれている、人類の叡智を伝えているのが「ノウイング」です。

私自身は、「ノウイングスクール」で「人間とはどういう存在なのか」などを含めた古代の叡智を学びながら、個人の「自主独立」を目指すプロセスを経験しました。

日本人は目覚める人が多いとか、重要な役割を担っている、ということがよく言われますが、それはノウイングの観点でいうと、日本は地理的に島国になる前、レムリアの頃は、日本海にまだ海水が入っていなかったので、そこは谷だったんですね。

そこにレムリアの文明が栄えていました。最終的にそこに海水が入り込み、日本が島国の状態になったので、大陸から地理的に切り離された結果、レムリア時代のDNAが、割と純粋な形で私たち日本人の体の中に引き継がれている、と言われています。

ですので、知らず知らずのうちにレムリア時代の一元(ユニティ)の価値観が、自然と日本人の中には入っている、というところがあって、「目覚めやすい」性質があるんですね。

(4月27日に「目醒めと現実創造」のトークイベントをされる)並木良和さんも、ご自身の講演会で、時代は分離から統合に向かう、ということを講演会などでおっしゃったりしていますが、ノウイングという文脈でいうユニティは、どんな感じのものなんでしょうか?

地球上の私たちは、1万3千年ごとに「分離」、つまり「二元の時代」と、「ユニティ」つまり「統合」の「一元の時代」を交互に体験しているといわれています。

実はその1万3千年というのは、天体の動きとも関連しているんですね。太陽系全体が1万3千年かけて、天の川銀河の銀河面の片側を通り、次の1万3千年で反対側の面を、らせん状に動いて移動するという、天体の動きのサイクルともリンクしています。

私たちは、分離の時代からユニティへの「移行期(1000年間)」の中で、ちょうどミッドポイントを通り過ぎて、ユニティのサイクルに入ったところなのですが、今までの1万3千年は分離の時代だったので、いろいろな二元的なものの考え方、例えば「対立すること」や「優劣をつけること」、そして「自分と他人が切り離されている感覚」などを、人類全体の集合意識的に、ずっと体験してきています。

そして、分離とユニティの時代は交互に繰り返されてきているので、過去に遡るとレムリアやアトランティスの時代にも、私たちは、すでにユニティを経験しています。

ですので、古代の叡智に含まれる、そうした一元的なユニティの世界の考え方が、これからの新しい時代に重要になってくる、という風に言われています。

なるほど、興味深い話でいろいろ広げて聴きたくなってしまうのだけれども、今回は「目覚め」に焦点をあてて特に聴きたいなぁと思います。ノウイングの文脈でいう「目覚め」ってどういうことなのでしょう?

ユニティの時代が、この先どんどん進んでいくと、目覚めなんて当たり前、というか、みんなが目覚めている状態というのがやってくるので(まだずっと先ですが)、いつかはそういう世界になります。

ただ、今はちょうど分離の時代からユニティへと移行している時期なので、この移行のシフトにうまく乗れないと、個人レベルでいうと、なかなか人生が厳しくなってくる、という時期なんですね、今は。

目覚めようと思えば、それは促進されますが、今までの二元的な考え方に固執してしまったり、「葛藤」が手放せないと、それが強化されてしまいます。

「葛藤」というのは「相反する方向に引き合っている状態」、例えば「本当はこれがしたいけれども、何かの理由でそれができない」というような状態なのですが、そういった「葛藤を手放していく」ということが、目覚めていくためにとても重要です。

二元的な分離の意識をもち、葛藤をやり続けてもいいんだろうけれど、それをやっているとどんどんきつくなっていくということ、これまではそうではなかったけれども、これからは二元的な在り方を続けると、辛くなってくるという変化が起きるってことなのですね?

そうですね。二元的な分離の時代というのは、ある意味、葛藤が人生を導いていた、という側面もあります。葛藤があったからこそ進めた、ということもあった。そして、葛藤自体は、「良い/悪い」ではないんですね。

私たちの「魂」の部分というのは、創造主によく似た形で創られているので、本当はみんなクリエイターとして、すごい力を持っているんです。ただ、葛藤があると、現実化する力を弱めてしまう、ということが起こります。ですので、「葛藤は悪いもの」ということではなくて、「構造的に、葛藤が現実化を妨げていますよ」ということになります。

なるほど、これまでは割と経営者さんなんかが、葛藤をバネにビジネスを創業したり大きくした、ということが言われることもあったりしたけれど、それは古い時代の話になりつつあるんですね。

ある意味それは、原動力にはなりましたよね。葛藤があるからこそ進めた、という意味での原動力になっていた、ということはあると思います。

例えば、葛藤フリーで進むっていうのは、どんなイメージなのかしら?

先ほど、「私たちの魂の部分はクリエイターと同じ」という話をしたのですが、よく「思考は現実化する」とか、「願いは叶う」と、自己啓発的な分野でも言われていたりしますよね。

それはノウイングの観点からも理にかなっていて、人間とはそういうことができる存在、ということなのですが、大元を辿っていった時に、この宇宙の始まりの瞬間というのがあって(ビッグバンと言ってもいいと思うのですが)、その始まりの瞬間に創造主が、「創造主の相似形である魂」を、この宇宙に解き放っています。そして、「進化する物質になりうるエネルギー」も宇宙に解き放たれました。

「魂」の方は創造主の分子のようなものなので、創造主と同じ力が本来あるはずなんですね。一度、魂として宇宙に解き放たれたら、それを創った創造主でさえ、その一つ一つの魂を修正したり変更したりすることはできません。それぐらい、「オリジナルのもの」として、魂は宇宙に存在している。

その魂のひとつひとつが人間の肉体に入っていて、一人一人がそういった性質を持っているんです。魂は永遠不変で、完全なんですね。何も欠けていない。これは、(CTIの)コーチングの背景にある人間観にも近いんですが、人間は本来、クリエイティブで欠けるところが無くて、それ自体で全体性を持っている。それは、魂の性質そのものと同じなんです。

ですので、その人間観はノウイングの観点から見ても真理で、さらに進めていうと、先ほどの「進化する物質になりうるエネルギー」の方は、地球上では、人間に関係するところでいうと、「身体感覚意識」というものになり、ノウイングではこれを「スピリット」と呼んでいます。

そして、私たち人間は、「ソウル(魂)」と「スピリット(身体感覚意識)」と「ボディ(肉体)」が合体した存在なんですね。本来、クリエイターと同じ性質のソウルが一人一人に備わっているので、なんでも思い通りのことが現実化できるはずなんです。誰でも、どんな人でも。どんなに性格が悪くても、みんなから嫌われている人だとしても、魂は完全です。

そうすると、現実化する力は全員等しく持っているはずなのに、何で思い通りにならないことがあるのか、望んでもなかなか現実化しないのはなぜか。本来は、「意図したこと」イコール「結果」として現れるはずなんです。図式としては、「意図=結果」なのですが、そこに「葛藤」があると、「意図―葛藤=結果」として、葛藤分が間引きされてしまうんですね。

よくある例でいうと、「お金持ちになりたい」ケースで、例えば「何億でも何十億でもお金を手に入れたい」、と言う人がいたとして、現実は全然お金が入ってこない、意図しているけれども全然現実化しない、という場合。これは実は、「何十億円、手に入れたい」という意図に対して、どこかで「労働の対価としてしか、お金を貰ってはいけない」とか、「沢山お金を儲けるって、何か卑しい感じのイメージがする」とか、「お金持ちの人に対していいイメージを持っていない」とか、そういうものがあると、結局その分が間引かれるわけなんです。純粋にただ「お金を手に入れる」という意図だけではなく、葛藤がセットになっているから現実化しないわけです。

なるほど、ここで一度整理したいのだけれど、先ほどクリエイターという言葉があったのだけど、目覚めていくっていうこと=クリエイターとしての完全なる魂に、近づく、みたいな感じなのかしら?

自分の中にある「完全なる魂の側面に気づく」、という感じだと思います。それは自分の外側にあるものではないし、何かものすごいトライアルがあって、何かを手に入れたら自分にもたらされるものではなくて、全員にすでに備わっている側面なのだけれども、何かの理由でその視点を(意図的な場合も含め)忘れていたりするわけです。

この現実世界の大変な人生、とか、人それぞれハマりがちなドラマとかありますよね。そういうところにフォーカスしていると、完全な魂の部分というのは、顕在意識では認識しにくくなるので、まずは「人間とは、本来そういう魂の側面を持つ存在である」、ということに気づくこと。そして、魂と、スピリットや肉体の方と、ちょうどよく、バランスよくコラボレーションしていくこと。それが目覚めていくときの状態です。

よくあるのは、「魂の側面を忘れている状態」、例えば、「すごい人たちは世の中にいるけれども、自分はそんなことはできない」とか、「自分は他人より劣っている」とか、そういう感覚に陥りがちなので、「魂の側面を思い出す」、という感じですね。

なるほど、魂そのものになっていくわけではなく、協働、コラボレーションなんですね。

そうですね。肉体を持っている間はやはり、ソウルとスピリットとボディは等しく大事な存在なので、「ソウルは完全だから(スピリットやボディと比べて)一番偉い」ということではないんですね。それぞれのコラボレーションのバランスが、うまくとれていることが大事だと思います。

打ち合わせでも少し話したのだけれど、葛藤など、目覚めていくことを妨げるものがいくつかある、ということだったんだけれども、それをどう手放せるかということをここで聞かせてもらってもいいでしょうか?Mioさんにそれを打ち合わせで聞いて、私自身、すごいグリグリきたので・・

そうですか(笑)。本来私たちはクリエイターなので、なんでも思い通りに現実化できるし、スムーズに人生が進んでいくはずです。それなのに、それがうまくいっていない、ということは、ある意味、何か「余計なことをやっている」とも言えます。

その文脈から、「手放した方が良いもの」として挙げられるキーワードが、「正しくある必要性」、「ジャッジメント」、「葛藤」です。「正しくある必要性」があると「ジャッジメント」をしてしまい、ジャッジをすることで「葛藤」が生まれます。

例えば「家族のメンバーとの間にこんな葛藤があります、それを手放したいです」といった時に、必要かつ大切なのは、「ジャッジメントをしない自己認識」です。

葛藤を手放すために、相手との間にどんなことがあったかを見ていきましょう、となったときに、「ああ、私は、なんてかわいそうなことをされたんだろう・・・」みたいな、悲劇のヒロインのドラマにはまると、それを繰り返している限りは、葛藤は外れないんですよ。

セラピーの現場では、割とこういった、「自分は悪くなかったんだ」みたいなことで癒されていく側面ってあると思うけれども、それだとだめなんですね!?

セラピーの手法で有効なものは沢山あると思います。例えば自分が酷いことをされた、とか、トラウマ的な出来事があって、自分の心が傷ついている、ということがあった時に、それを自分で自己認識していく作業って、やはりキツイんですよね。

ノウイングの観点では、そこでジャッジメントをしない、それはつまり、「そういうことを体験したということは、自分が悪い子だったからではないか」とか、「自分に原因があるんじゃないか」とか、「自分は悪くない、悪いのは相手だ」というような、ある種のラベリングみたいなことをしていると、結局ずっとそこから抜けられないんです。

ジャッジを手放しつつ、過去のつらい体験を見る上で大事なのは、「そういう体験をした自分を許す」ということだと思います。自分が悪かったからそうなった、とか、自分を責め続ける「セルフジャッジ」という、ジャッジの中でも一番やってはいけない種類のジャッジメントなんですが、それをやっている限り、本来のクリエイターである自分の視点というのは、なかなか手に入らないんですね。

かわいそうな自分、ダメな自分、自己否定する自分、みたいなマイナス方向のスパイラルに、どんどん入ってしまう。とにかく過去の経験も、「ジャッジをせずに見ていく」ということが大事です。

そして、「正しくある必要性」についてですが、例えば、兄弟の中で末っ子だったりすると、「どうやらここでは、いい子にしていないとサバイバルが難しいぞ」、といったようなことを、「戦略」として子供の頃に持つことがあります。

すると、「正しくある必要性」として、「いつでもすごく空気を読む」みたいなことが、戦略としてパターン化されます。そうすると、自分にもそれを強いるし、他人を見たときに、空気が読めない人がいると、許せない。そうしてジャッジをすることになります。それは自分の中に、「正しくある必要性」があるからなんですね。

その人にとっての「正しさ」と、「正しくある必要性」というのは別のものです。

例えば、母親という立場の人にとっての「正しくある必要性」として、「三食ちゃんと、ごはんを自分が作らなければいけない」というものがあった場合。それは、「こうでなければならない」という、世間や親から引き継いだ価値観なのかもしれないし、自分のサバイバルの戦略として、「自分がそれをやらないと周りの人から承認してもらえない」ということで、自ら握りしめているものかもしれません。

もしもそれが、その人の本当の「正しさ」だったら、そこに葛藤はないんですよ。ただ自分の正しさの表現として行われることには葛藤はないのですが、「本当はそんなことしたくないけど、この世界では、そうしなければいけないから」と思って、それをやり続けていると、本当はやりたくないから、葛藤になっていくわけです。

本質的にこうあるっていうことと、自分の意識の中で「これが正しいであろう」っていうのは、かい離しているってことなのですね。

そうですね。自分の本質から望むものではなく、世間から求められているから仕方なく、とか、自分の役割として、どうやらこれをやらなければならないらしいという、後付けの正しさ、という意味での「正しくある必要性」というのは葛藤になります(役割をきっかけにやり始めたことでも、それがその人本来の正しさと合致する場合には、葛藤にはなりません)。

そういう視点は、すごく無意識化している感じがして、例えば人から何か酷いことを言われた、っていう時に、自分の中で嫌な気持ちになる。で、嫌な気持ちを分析してみると、「自分は間違っていないのに、相手が攻撃してくる」みたいな感じだったりとか、無意識の中で自分と他者がいて、他者の事に対して、どこかでジャッジが入っている。ジャッジが入った時点で自分は正しいのに、って。そういうのが、すごくあるなって気づいたんですよ。それで、何かまるで空気のように自分の正しさを常に常に証明しようとしている、といったようなことが無意識の中である気がしたんですよ。

それに関しては、溜さんの中に、「正しさ」と、「正しくある必要性」とが、入り混じっているかもしれないですね。たぶん、本当の正しさって、人に何と言われようと揺るがないというか、それが正しいことを本質的に知っている、ただその人のあり方、ビーイングのところに立ち現れてくる、っていう感じだと私は思うんですね。

「正しくある必要性」である場合は、「本当は自分でもそんなことしたくはない」とか、「しなくてもいいのなら、そんな正しさはいらない」と心の底で思っていたりするので、そうすると、外から何か言われたことによって、余計な刺激を受けるかもしれないですね。

また、多くの人が、自分のことを正当化したいと思っているので、「何のために正当化したいのか」、その構造を見ていくことも大切だと思います。ジャッジについても、自分をジャッジしていると、他人のこともジャッジしますし、自分のものの見方を客観的に観察することも大事ですね。

なるほど、本来の正しさってただ「そうである」っていうか、先程ビーイングって言ってくれたけど、自然な、本来の「あり方」なんですね。

そうですね、私はそう捉えています。

その人本来の「あり方」に関していうと、ノウイングスクールでは、私の学んだ時期の本科は13か月のコースでしたが、一番最初に3か月くらいかけて、まずは「自己認識」をやるんですね。

「汝自身を知れ」という言葉もありますが、「自分が自分だと思っているものが本当の自分なのか?」とか、「これが私の価値観です」とか、「これが信念です」と思っているものが、本当にそうなのか。玉ねぎの皮をむくように、その人の属性や役割を一枚一枚はいでいった時にも、本当に残るものなのかどうか、そこを見る作業は、目覚めていくプロセスの上でも、必要になってくると思います。そうした自己認識は、本当の自分自身になるための第一歩かもしれません。

私もやりましたが、なかなか大変でした(笑)。以前の私は、自分に対するジャッジがとても強かったんですね。ノウイングスクールを設立した、ゲリー・ボーネル氏に初めて会ったのは今から5年くらい前で、その時は個人セッションでしたが、「もうそんなに、自分をジャッジするのはやめなさい」と、開口一番に言われたくらいでした。

自己認識をするときには、ジャッジをせずに客観的に自分とともにいてくれる、例えばパーソナルコーチやカウンセラーの存在なども、助けになると思います。ノウイングスクール以外にも、そうしたサポートをされる立場の方はいらっしゃいますし、何かしらの方法で、自分の内側を見ていく作業ができると良いのではないかと思います。

なるほど、ありがとうございます。目覚めについて、ノウイングの視点から、すごく深まった感じがしました。もっと時間がほしい感じですが(笑)

※興味深いお話を沢山聴かせてくださったMioさん、そして対話会に参加してくださったお一人お一人に、心から感謝いたします。